流年:変わらぬあなたのまま、なぜかこの一年だけひときわ違う
DustEcho編集部

四柱(しちゅう)という命理の体系のなかで、「流年(りゅうねん)」とは「その年」のときを印す言葉であり、一年ごとに人のうえに重なる気のようなものを指す。もともとは、古人が「年と年とのちがい」に付けた名であった。この言葉を術(じゅつ)の用語から取り出してみると、流年が本当に指すのは、こういう体験である――
あなたにも、そんな感じがあったはずだ。同じあなたのままで、ほぼ同じことをして、周りの人も変わっていないのに、それなのにどこかの一年だけ、日々がまるでちがう色に染められる。明るくて熱を帯びる年もあれば、灰色で重たい年もある。細部はおぼろげでも、その年の「勢(いきほい)」だけは覚えている年もある。古人は、この「同じ人なのに、年によってあたる光がかわる」という体験を、流年という言葉のしたに置いた。
流年が言うのは年ではなく、「その年の光」である
流年はしばしば「今年の運が良いか悪いか」と取られ、まるで毎年を採点しているかのようである。しかしそのいちばん本当のところは、吉凶ではなく「光」である。同じ人が、ある年の光を身に受けると、現れ方がずいぶんちがってくる。
この体験はあまりにもありふれている。あなたはやはりあなたで、能力も性格も置かれ方もさほど変わっていないのに、ある年はひときわ見られ、機会が約束でもしたように次から次へとやってくる。別の年には、同じあなたなのにあちこちで壁にぶつかり、口を開くだけで冷ややかになることさえある。流年が対応するのは、この「その年の光」という一層である。それはあなたを変えず、ただあなたのうえにその年の色調を重ねるだけで、同じあなたがちがう姿を見せる。あなたという人が変わったと言っているのではなく、あなたがたまたまある年、その特別な光のなかを歩いていると言っているのだ。太歳(たいさい)に触れると慌てる人がいるが、じつはそれは古人が「今年は光が少しそれた」と言い表した比(たと)えにすぎない。慌てるか慌てないかは、これまでだってその年にあるのではなく、そのそれた光をあなたがどう受けるかにある。
なぜある年だけ、ひときわと思うのか
人はどうしてか、ある年をとりわけはっきり覚えている。その年にいちばん多くのことが起きたからではなく、その年の「光」があなたに当たるしかたがちがっていたからである。
順(じゅん)の流年では、何をしてもしたから支えられているようで、失敗さえ愛すべき欠けめになる。逆(ぎゃく)の流年では、何をしても狭められたようで、順調であったはずのことにさえ幾重もの敷居が増える。この「ひときわ」は、あなたが別の人間になったのではなく、その年あなたのうえに重なった色調の濃淡がちがうのである。これをわかめると、年に対する執着の多くが緩む。あなたがある年に急に良くなったり悪くなったりしたのではなく、ただある年のその光のなかを歩きあわせただけなのだ。流年が記すのは光であって、あなたではない。ある同僚が言っていた。ある年は何か大したことをした覚えがなく、一年じゅうがぼんやり灰色で、誕生日すら祝う気が起きなかったという。ところがその次の年、彼女はふっと生き返り、物を学び始め、友だちもできた。この二年のあいだ、本人は変わったかと聞くと、「いや、やっぱり私」と言った。変わったのは身に重なったその一層の光だった。
その形:重ねるものであって、上書きするものではない
流年は「この一年があなた全体を書き直した」と誤解されやすい。しかしそれが指す体験は、上書きではなく重ねることである。
それはあなたがこれまで蓄えたものを消すことも、あなたという人を置き換えることもない。ただあなたのうえに、その年の色を一層重ねるだけである。だからこういう姿が見える。落ち着いた人が、ある流年のなかでふと粗忽(そこつ)になる。衝動的な人が、ある流年のなかでふと静かになる。彼らが変わったのではない。その年の光が、彼らのある一面をより明るく照らしたのだ。流年のやさしさはここにある。それは決して「あなたがだれになったか」ではなく、ただ「今年、あなたのどの面が照らし出されたか」である。あなたはやはり全うなあなたのままで、ただ今年は、別の光を当てられただけだ。だからそれは、これまで貯めたものを零(ぜろ)にするようなことも、あなたという人を入れ替えるようなこともしない。内気な人がある年「たまには出てもいいか」となるだけで、急に社交的な人間に変わるわけではない。外交的な人がある年「少し隠れていたい」となるだけで、性格が反転するわけではない。
ひっかかるような流年のなかで、人は何を体験するか
逆の流年は、体験としては大した災(わざわい)ではなく、歯のすきまが狭くなったような体感である。計画はつい崩れ、関係はつい張りつめ、これまで手慣れたことが引っかかり始める。あなたが悪くなったのではない。その年の光が、あなたの余地を狭く照らしたのだ。
このとき人は二つの間違いをしやすい。一つは、一年のひっかかりを、自分という人全体への否定に広げてしまうこと――「この数年、どうしてこんなふうになったんだ」。もう一つは、逆の年になってなしくそに突破しようとして、その灰色の一層を腕力で引き裂こうとし、かえって強くぶつかることである。流年が思い出させるのは、こういうことだ。ある年はもともと「突破していく」ためのものではなく、「ゆっくり堪(こら)えていく」ためのものである。その狭さは、この年があなたに与える限りであって、あなたの一生の寸法ではない。一年の光をもって、自分の一生を測るには及ばない。だから逆の年にもっとも避けるべきは、「今年は何をしてもうまくいかない」を「私という人がどうせだめだ」と翻訳することである。あなたはただ今年、道が少し狭くなっただけで、体を横にしてなら通れる。光が変われば、その狭さはまた広がり戻る。
どう付き合えばよいか
ある年を「今年の天気」と思い、それを「私の今年の運命」と思わないこと。それが流年と付き合うもっとも楽なしかたである。
順の年には使いすぎるな。その良い光は誘うが、それはその年の風土であって、あなたの永遠の配当ではない。光を借りて物事を分厚くすることは、「私は今年すごい」と楽しむことよりも確かである。逆の年には早く結論を出すな。自分にそういう年があっていいのだと許しなさい。それは縮み、養い、決めごとを少なくするための年である。年は過ぎ去り、あなたは連(つづ)なるその人である――どの年の光にも、自分へのすべての判断を書き換えさせてはならない。あなたはただちがう年になら、ちがう姿を見せるだけなのだ。順の年には、何でもできるとふわっと浮かぶな。逆の年にも、これでおしまいだと落ち込むな。ある年を季節の外套(がいとう)と思いなさい。似合うときはよく着て、似合わないときも、それはいつか変わるのを知っていればよい。あなた自身は変わっていない。年が与える光には濃いもの薄いものがあるが、照らして照らしても、照らしているのはいつも同じあなたである。ある年を季節の外套として過ごせばよい。それをもって、外套を着る人を定義してはならない。
おわりに
流年が人に与える慰めは、じつはひどく軽い。年は流れていく。そしてあなたは、ずっと連なるその人である。
だから、ある年がひときわ明るかったからといって、急に頂(いただき)に立ったと思うには及ばない。ある年がひときわ暗かったからといって、これで底に沈んだと思うにも及ばない。流年という言葉のもっとも思いやり深いところは、こうしたことを私たちの代わりに覚えていることだ。毎年の光はその年の光にすぎず、あなたはやはりあなたで、ただちがう光のなかで、ちがう姿を見せている。来年、光は変わる。そしてあなたは、やはり連なるあなたのままである。本命年(ほんみょうねん)には人一倍気をつめる人がいる。怖いのはその年そのものではなく、その年の光がそれたことである。しかし光がそれたからといって、あなたが傾いたのではない。
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