臨官 育って出番を迎え、物事を引き受けられる段階
DustEcho編集部

五行の気の生滅と巡りを描く十二長生というしくみのなかで、臨官は十二の段階のうち手前のほうにあり、冠帯のすぐあとにくる一駅である。冠帯はようやく姿かたちができたところで、臨官はその姿がもうひと伸びして、しっかりと立ち、役目を負う年ごろに達した状態である。人が育って外へ働きに出られ、居場所を得て、下から任された仕事を引き受けられるようになったようなもの。まだ最盛の帝旺ではないが、気はすでに安定して力強く、使える状態にある。暮らしに借りれば、臨官が言うのは運でも何でもなく、誰もが通る段階のことである。一つの物、一つの関係、一つの己が、形を持ったところから立ち上がって、になえるところへ歩を進めること。
臨官は最盛ではなく、出番を迎えたとき
われわれはになえることを、まだもう少し準備が要る、と読み違えがちである。だが臨官のいちばん実直な言葉は、いまこそ上がれ、という一句である。植物が芽を伸ばして土のなかでしっかり立ち、花を咲かせ実を結ぶ前に、すでに立っている。人が学ぶところから一人前になるあいだのその境が、臨官である。暮らしも同じである。新人が研修を耐え、初めて一区切りの仕事を独りでになう。関係が好意から現実の難題をともに向き合えるところへ進む。企画が枠組みを整理して、初めて本当に本番で動き出す。これらは完璧になってから、ではない。臨官はもうそこにある。臨官を見抜くとは、まだ最盛ではないがもうになえる、そのときに、自分がもう立ち上がったと見ることである。何もかも整うのを待ってからでなければ動かない、というのではなく。十分に備わるまで、とこだわって、引き受けられた仕事まで押し戻す人があまりに多い。
働く場の臨官 構えていたから引き受けるへ
職場の臨官は、初めて本当に引き受けた、その瞬間にやってくることが多い。長くついていた助手に、ある日上司がひとまとめの仕事をすべて渡した。彼は慌てず、ひとつひとつ筋を通した。ずっと支える側だった技術者が、初めて一人で一つのモジュールを本番で動かした。これらの場面に大物の気配は微塵もない。手のひらは汗ばんでいても、それが臨官である。気はすでに立ち、になえる。多くの人が臨官の手前で引っかかるのは、引き受ける勇気がないからである。失敗が怖く、羞恥を見せるのが怖く、いつまでも学んでいる、まだ備わっていない、とそこに留まる。しかし臨官はまさに、まだ頼りなくても先に一手引き受けてみる、そのなかで起きる。機会をなかなかつかまないのは、力が足りないからではない。自分ではまだ駄目だ、と思い込んでいるからである。小さな仕事を先に一手引き受けてみることを許せば、臨官は訪れる。そのあとの力は、この気に沿って伸びてくる。だから職場では、完全に備わってから手を出すのを待つな。先に引き受けられた実感をつかめ。
関係の臨官 好意からにないへ
親しい関係の臨官は、ともにない事を引き受けたい、と思う瞬間にやってくることが多い。二人が睦み合うところから、ある日一方が難に遭い、他方が逃げずにしっかり寄り添ってともに支えたとき、その瞬間に関係は良い気持ちから、になえる同盟へと変わる。それはもう姿をなし、現実の重みに耐えられる。多くの人が臨官の手前で引っかかるのは、現実へ踏み出す勇気がないからである。金の話をする、未来の話をする、だけで壊れるのが怖く、いつまでも甘い夢に留まる。しかし現実へ踏み出すその一足が、臨官が起きる前提である。ようやくになえる関係を守ることは、ずっと浮いたままより実直である。避けるところを少し減らせば、それは自らますます安定して育つ。逆の場合もある。関係がようやく何かをともに向き合えるようになったのに、責任を恐れて先に引いたら、そのわずかな臨官は自分の手で戻してしまう。立ち上がる勇気のある人は、怖くないからではなく、ただ甘いときだけで苦しいときは共にせぬ、その状態に留まることをもっと怖がっているのである。
物事の臨官 準備から動くへ
一つの物事をなす臨官は、大げさな発表ではなく、初めて本当に上へ押し上げて動かす、そのときであることが多い。書きたいものに、初めての一編を出してから読者がつきはじめる。つくりたい講座に、一期の試し運用が始まる。これらの動きに大成就の勢いは微塵もないが、それが臨官である。気は立ち、動ける。あまりに多くの人が、考えてから動く、と待って敗ける。臨官はまさに、まだ考え抜かずに先に一押し、そのなかで起きる。企画がなかなか本番へ出ないのは、難しいからではない。百発百中の確信がない、と引っかかっているからである。不完全な版を先に一度動かしてみることを許せば、臨官は訪れる。外の反応がこの気に沿って、より安定させて育ててくれる。多くの人が確信がないことを動かぬ理由にするが、臨官は逆を言う。確信がないからこそ、先に立ち上がって一手引き受けねばならぬ。安定は待って得るのではなく、引き受けて生まれるのだ。だから一つの物事を起こすには、万全を待つな。先にないしめた実感をつかめ。
臨官がいちばん恐れるのは、立ち上がる勇気がないこと
臨官でよく起きる問題は、明らかにになえるのに後へ引くことである。仕事が手元へ来ても押し返し、機会が戸口へ来ても閉て、関係がともに向き合うべきときも避ける。この一引きで、立った気はかえって漏れてしまう。なぜならになえるは育つものではなく、自分で否んだものだからである。臨官に要るのは避けるな、である。自分を信じる勇気を少し出し、引き受けられた実感を本当に地に落とす。良い状態の多くは立つが遅すぎることで壊れる。立ちすぎる早さではなく。だから臨官の体験のなかで、いちばん学ぶべきはさらに準備することではなく、退かぬことを堪えることである。そのになえる気を自らしっかり実らせよ。あなたはただ手を出して引き受けるだけでよい。いちばん怖いのは引き受けが下手なことではない。まだ駄目だ、という手に自分を元の場所へ押し戻されることである。後へ引く人は、本当に駄目なのではなく、慌てているのである。この二つを分かたねば、いま来た臨官を取りこぼすことになりやすい。
臨官を頂と取り違えるな
もう一つやりがちな過ちは、臨官を頂きに達した、と取り違えることである。一つの物事を引き受けたばかりなのに、もう安定した、ひと息ついて寝そべってよい、と思う者がいる。ともに難を耐えた関係ができたばかりなのに、もう波風は立たぬ、と思う者がいる。この一息で、立った気はかえって散る。臨官はになえるであり、すでに満ちたではない。そのあとには帝旺を突き進むものが残り、休むどころではない。臨官を見抜くとは、自分が立ち上がった、これから進める、と知ることであり、終着に達したと思うことではない。臨官を頂ではなく起点とせよ。そうすればかえって安定して歩める。
臨官は退きもし、また来もする
十二長生の巡りのなかで、臨官のあとに帝旺、衰、病、死があり、そしてまた長生から起こる。つまり臨官は一度きりではない。一つの物が衰えて散っても、別の物が長生から臨官へ歩む。一人の一区切りの状態が終わっても、終わりではない。別の巡りの臨官が別の場所で待っている。これはまた慰めでもある。いま下りたばかりのものが、になえるということをこの先ずっと無効にするわけではない。小さな立ちからいつでも、少しの実感を再起できる。臨官は退くと認めることこそが、かえって引き受ける勇気を出させる。退いたあとでもまた立てると知っていれば、その一手が受けそこねて落ちるのを恐れぬからである。だから一つの臨官を下りても、自分が駄目になった、と思うな。あなたはただ一巡りを終えただけだ。次の巡りが別の場所で立ち上がるのを待っている。
おわりに そのになえる実感こそがいちばん大切
臨官という言葉が暮らしに落ちるとき、それはまだ最盛ではないがすでにしっかり立ち、物事を引き受けられる、その瞬間である。それは不思議でもなければ、きっとこれほどになえる、と占うものでもない。ただあなたに促す。形を持ったところから立ち上がるまで、この一歩そのものに重みがあると。強さが足りぬからと引くな。まだ頼りないからと押し戻すな。ようやくになえる実感を一つ一つ守れば、あなたの暮らしは一穂一穂と、必ず立てる新しい緑に満ちる。
もう少し今めいた言い方
心理学は勝任力と役割担いを語る。人は本当にない事を負う過程のなかで、自分にできぬかを確かめ、なしていくなかからさらに育つ。臨官の説は、ただ敢えて立ち上がり、負うなかでしっかり実らせる、この事を五行の生滅の言葉で一遍語ったに過ぎぬ。それはあなたの運を占うものではない。ただ促す。ようやくになえる実感こそが、いちばん頼りなくいちばん大切であると。避けるな、退くな。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。