離:それは明るい、なぜなら先に依るものを見つけたから
DustEcho編集部

『易経』の中で、离は八卦の一つである。その記号は上下の二本の陽爻と真ん中の一本の陰爻☲で、火を表す。同時に「丽」、即ち「着く、依る」を表す。昔の人は「離とは、丽なり」と言い、日月は天に丽し、百穀草木は土に丽すと言った。意味はこうだ。火は独りでは燃えず、柴に依らねばならぬ。光は独りでは明るくなく、物に依らねばならぬ。离卦が語るのは、人がどう「依り」、どう「明るく」、依りながら自分を失わぬかだ。
これは私たちが以前に書いた「火」とは別物だ。あの火は炎上や、明るくて短く、浄化を語った。离が語るのは火の熱ではなく、火の「明」と「附」だ。どれほど盛んな火でも、柴を離れれば消える。どれほど明るい人でも、自分を明るくするその物が要る。
明るくなるには、先に依る物が要る
离の核心は「丽」、即ち依ることだ。炎は選ばぬが、どこかへ落ちて初めて燃える。人もそうだ。君には「依る」ものが要る。愛する事、正しい仲間、明るくなりたいと願う価値。依るものがなければ、人は漂う。根のない炎のように、風に吹かれれば散る。多くの人が「空っぽ」「やる気が出ない」と感じるのは、能力が足りぬからではない。まだその依るべき柴を見つけていないだけだ。
それがはっきり照らすのは、濁っていないから
离は八卦の中で「明」にも対応する。火の光は、はっきりとして、物を弁えられる。人の心がいつも一团の濁った汁、自分が何を望むか分からず、軽重が弁えられなければ、「明」になり難い。离が教える明は、賢さではなく、はっきりすることだ。君が何に依り、なぜ明るく、誰に向けて明るいかを知っている。はっきりすること、それ自体が一種の光だ。人が君に近づくのは、君が何かをはっきり見せてくれたからで、ただ熱いからだけではない。
真ん中のその虚こそが、容れる鍵
离卦の真ん中は陰爻、即ち空だ。火の心はかえって虚しい。虚しいからこそ、柴を納め、続けて燃える。人が自分を詰め過ぎれば、他者に耳を貸す余白も、新しい物を入れる隙間もなく、火は淀んで、長く明るくない。离が留意するのは、明るくて久しい人は、心に一道の虚を残しているということだ。その虚は弱さではなく、他者をも、変化をも容れる場所だ。
それは依るが、自分を失うのと同じではない
依ることは「自我がない」と誤解されやすい。だが离の依るとは、火が柴に依るようなもので、火は火のまま、柴は柴のまま、両方在る。人が仕事や関係に依っても、それに溶けて形を失うという意味ではない。健やかな依り方は、「君によって私はもっと明るい、だが私は君ではない」だ。良くない依り方は、火が柴に飛び込み、一緒に灰になることだ。それは丽ではなく、壊れることだ。
明两作とは、明るくなってまた明るく
离卦の象辞は「明两作、离」と言う。一度明るく終わるのではなく、一つ明るくまた一つ明るく、連なって明るい。人の状態が良いとは、時折の爆発ではなく、この一段が明るく終われば、次の一段も明るく続けられるということだ。外の気合で一度明るくするのは易いが、内なる「依り」でしっかり明るくするのが、离の技だ。依る物が正しければ、明るさは続く。毎度新しく火を点す必要はない。
それは燃え過ぎることもある
离は火、火は照らすことも、焼くこともできる。依るこのこと、度を過ぎれば執着になる。手に入らぬ事に依れば、燃やすのは自分だ。君を消耗する人に依れば、明るいのは相手で、消えるのは君だ。离卦は「依れば良い」とは言わぬ。言うのは「正しく依れ」だ。依りが養うか吞むかを見極めることこそが、离が各人に残した課題だ。
乱れた風を怖がるが、風を借りて伝わる
炎は一度の乱れた風に吹き散らされるのを最も怖がる。だが程よい風は、かえってよく燃え透る。依るこのことも同じだ。環境、人、機は、君を消す風でもあれば、助ける風でもある。人が正しい事に依って、正しい機が後押しを遇えば、明るさは格別に安定する。悪い人にあちこち吹かれれば、消えやすい。离は風を避けろとは言わぬ。見極めることを学べと言う。この風は、君を助けに来たか、消しに来たか。
誰に向けて明るいかが、何に依るかを決める
依る者の中には、「他者に私の明るさを見てほしい」ための者もいれば、「この事そのものが私を明るくさせたい」ための者もいる。両方の依る対象は同じでも、動機は違う。前者は明るくなるのが疲れる。いつも角度を調えて風に媚びる。後者は明るくなるのが静かだ。火は自らどこへ燃えるかを知っている。离の明は、後者に寄る。君が依る物が、ただ拍手と換えるためのものなら、火はいつか間違った人に燃やされる。先に誰に向けて明るいかを問い、それから何に依るかを決めよ。
それは消えることもある、明るさを神話にするな
离は人に明るくあれと教えるが、火は遂に消える。これは事実だ。人が自分の「明るさ」を、いつも点り続け、いつも安定せねばならぬとすれば、かえって焦る。いつか消えたら何もない自分だと怖がるからだ。离は火が消えぬとは言わぬ。言うのは、正しく依っていれば、消えてもまた点せるということだ。明るくない一段、暗い一段を許せば、かえって次の明るさが本物になる。明るさを常とし、暗さを例外とすることが、离が人に残した落ち着きだ。
离の明は、二重である
离卦の象辞は「明两作」と言う。その「两」は二度明るいことではなく、外の物を照らすと同時に、自分を照らすことだ。人が外へ光を発し、他者の目を喜ばせることばかりに忙しければ、内はかえって黒い。本当に明るい人は、まず自分のその灯をはっきり点けてから、それに連れて傍を照らす。明两作とは、「自ら明るく」と「物を明るく」の二つの事を為すことだ。一つ欠けても离とは言えない。多くの人は半日明るくて、照らすのは全て他者ばかり、振り返れば自分はまだ黒い。それは明るさではなく、演じることだ。
だから离を書くとは、澄んで明るく依ることを書くこと
私たちは「离の方位が文昌を主るから試験に利く」とも、「運に离を持つ者がどう運を増やすか」とも書かない。書くのはこうだ。君に、自分を安定して明るくさせるその柴を見つけ、しかもはっきりと、長く、自分を焼かずに明るくできるかどうかだ。上下の二筋の陽と真ん中の一道の虚を描いたこの古い記号は、漂い、空っぽで、明るくなっては消える一人ひとりを見ている。火はこれまで問題などなかった。問題は、君が正しく依ったかどうかだ。
本当の明るさは、必死に燃えて他者に見せることではない。値打ちのある依る物を見つけ、そして静かに、はっきりと、自分を点すことだ。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。