空亡:いるはずの場所が、ぽっかり空いている
DustEcho編集部

空亡:いるはずの場所が、ぽっかり空いている
八字(四柱推命)という、干支で時を記す体系のなかで、「空亡」ということばは、ある落ち着かない空き方を指す。一旬のなかで巡り番の地支が空くさまを言う。ちゃんと埋まるはずの枠のなかで、ひとつだけ欠けているようだ。それが指す体験は、どこかの出来事そのものではない。人生のなかの、言いようのない欠落感だ。支えがあるはずの、手応えのあるはずの場所が、ふっと空っぽになる。名目のうえでは何もかもそこにいる。手を伸ばすと、届かない。
この「いるはずなのにいない」という味わいは、はっきり失うことよりも、言い表しがたい。
失ったのではない、いるはずのものが来なかったのだ
空亡でもっとも人を惑わすのは、それが「失う」のと違う点だ。失うとは、かつて持っていたものが、あとからなくなること。空亡は、端から持ったことがないのに、その場所には明らかに何かが入るはずだということ。約束した人が来ないようなもの。道に迷ったのではない、初めから現れなかったのだ。署名すべき欄が空いている。破られたのではない、書かれたことがないのだ。
預けられて育った女の子がいた。実の親は毎月、きちんと送金してきた。親族の誰もが「お前の親は律儀だ」と言った。しかし彼女が大人になってから気づいたのは、足りなかったのは金ではなく、「家」という場所がずっと空いていたということだ。金はあった。親は名目上そこにいた。だが彼女を受け止めるはずの場所は、空いていた。彼女が親を失ったのではない。その場所が、端から埋まったことがなかったのだ。これが空亡が指す体験である。失いではなく、欠落だ。
もうひとつ、別の空き方がある。「誰かが私を分かってくれるはず」という場所に潜む。年を重ねても仲むつまじい暮らしの人がいた。不自由は何もない。だが心が激しく揺れるたび、傍らを振り返ると、口元まで来たことばを飲み込んだ。言えないのではない。言っても、空気に語りかけるようだからだ。あとで彼女は気づいた。足りなかったのは結婚そのものではなく、「受け止められる」という場所がずっと空いていたのだと。名目上は誰かが傍にいる。実際には届かない。この空き方は、ひとりで暮らすよりも寂しい。
だから空亡が訪れたとき、「私は何かを失った」と口早に言うな。まず見きわめよ。いるはずの場所のうち、どこが空いているかを。その空いた枠を名指すことこそが、「なくした何か」をあれこれ探すよりも、ずっと正確だ。多くの人が「私は一体何を失ったのか」とぐるぐる回るのは、こう認めたがらないからだ。お前は失ってなどいない、その一片は端から来なかったのだ、と。この曲がり角を回れば、ようやく目が離せ、今まさに空いているのはどの枠かを見定められる。
名目のうえでは揃っているのに、実際には届かない
空亡はよく「揃い」の衣を着て現れる。契約は結んだ。その条項のなかの、守ってくれるはずの一文が空いている。関係は残っている。だが相手の心はとっくにその場所を去っている。役職は掛かっている。だが力はとうに別へ移っていた。何もかも「問題なさそう」に見える。だが本当に使おうとすると、その一片が虚ろだと分かる。
八年も会社にいた古参の社員を知っている。立派な肩書き、会議にはいつも顔を出す。だが資源を分け、決を取るとき、誰も彼に訊ねなかった。彼はずっと「自分は中核だ」と思い込んでいた。ある再編のとき、その「中核」があっさりと線を引かれ、彼はようやく気づいた。自分の場所はとっくに空いていたのだ。ただ誰も彼に言わなかっただけだ。彼が辛かったのは、失ったからではない。空亡が引き裂かれたその瞬間、自分が虚ろな大地の上に立っているのを見たからだ。
もっと隠れた例がある。交友の輪が広く、何百人もつながる人がいた。だが夜中に怖さで眠れぬとき、一覧をめくっても、「少し怖いんだ」と送れる人が一人も見つからない。彼に友はいないわけではない。肝心なときに受け止めてくれるはずの場所が、空いているのだ。空亡が教えるのは、名目上の「揃い」に騙されないことだ。その場所に、折にふれて手を伸ばし、実か虚ろかを確かめよ。折にふれて伸ばすのは、疑り深いことではない。自らに備えを残すためだ。本当に実の地に届けば、安心すればよい。虚ろなら、動く時間はまだある。不意に踏み抜くことはない。
空いていても、まずはそれと認めてよい
空亡に向き合うとき、人が真っ先にするのは、空いていないふりをすることだ。別のもので埋める。誰も待ってくれぬ夜を、忙しさで埋め、関係のなかのその虚ろな位置を、取り入りで埋め、心のその不安な一片を、溜め込みで埋める。だが詰め込んだものは、端からいるはずだった一片ではない。空きは、覆われただけで、空いたままだ。
もっと穏やかな構えは、まず「ここはただ空いている」と認めることだ。諦めではない。事実を認めるのだ。この場所には今、何もない。私は別のもので誤魔化さない、と。認めてしまえば、二つの道が開ける。その一片が本当に補われるのを待つか、あるいはその場所を自ら建て直すか。いるはずでいてくれなかった人や事に、頼らずに。
父子家庭の母がいた。子の父は一度も顔を出さなかった。彼女はかつて「子に全うな家を」と必死に思い、長年もがいて身を削った。あとで彼女は止めた。「その場所はただ空いている」と認め、そして自ら家を建てた。補うのではなく、新たに建てたのだ。子はよく育った。空亡は埋まらなかった。だがその空いた場所は、もう風を漏らさない。彼女自身がその壁になったからだ。空きを認めるのは、負けを認めることではない。手を空けて、自ら壁を積むことだ。多くの人がこの段でつまずくのは、「空きを認める」ことが「運命を受け入れる」ことだと思うからだ。実は逆だ。ここに壁がないとまず認めてこそ、本当に壁を積む。誤魔化して通せば、壁はいつまでたっても立たない。
それが空いていても、お前が終わりではない
空亡にもっとも怯えるのは、人が「ある場所が空いている」と「私という人間が駄目だ」を同じにしてしまう点だ。関係のなかのその虚ろな位置が空けば、自分は愛される価値がないと思う。仕事のなかのその虚ろな位置が空けば、自分は価値がないと思う。だが空亡が指すのは、部分の欠落であって、丸ごと失ったのではない。
なすべきは、「空き」を、それのいるべき範囲に枠づけることだ。その場所が空いているなら、その場所を扱えばよい。それをもって人生全体を裁くな。家の一部屋が空いているようなものだ。今は住まなくてよいが、家ごと壊すには及ばない。「ここに一片欠けている」と認めつつ、「ほかの部屋はみな無事だ」とも覚えておけ。この二つは、同時に真であってよい。
部屋が空いた人を知っている。役職を失い、長く悲しんだ。だがあとで分かったのは、空いた時間に、母の最期に付き添い、兄弟とまた近づいたということだ。その部屋は空いたままだった。だが家全体は、以前よりも温かかった。空亡は、いつまでも欠けたままを強いるのではない。部分の虚ろをもって、全体の実を否定するな、と言うのだ。その空いた場所は、そのままにしてもよいし、ゆるゆると補ってもよい。だがそれゆえに、家ごと崩れたなどと言ってはならない。家はまだある。お前はまだいる。それだけで、まずは立つには足りる。
おわりに
空亡は呪いではない。ただの気づきだ。支えがあってしかるべき場所が、ぽっかり空いている。失くしたのではない。端から埋まったことがなかったのだ。名目のうえでは何もかもそこにいて、手を伸ばせば届かない。この味わいは、はっきり失うことよりも言い表しがたい。
次に「いるはずのものがいない」と感じたとき、別のもので急いで塗りつぶすな。その空きをもって自分を否定するな。まずは認めよ。ここはただ空いている、と。そして決めよ。補われるのを待つか、自らその壁を積むかを。空いた場所は、決してお前の人生のすべてではない。
想接着読む:伏吟:いくつかの峠は、まるでわざわざあなたを訪ねてくるよう · 反吟:慌ててほっとすると、物事は別の面にひっくり返る · 流月:同じ年の中で、なぜかこの月だけ特にこじれる
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