巽、風は形を持たぬが、いつも隙間に潜り込む
DustEcho編集部

易経において、巽は八卦の一つである。その形は、下が一筋の陰、上が二筋の陽で表され、風を意味し、また木をも意味する。昔の人が風に最も感心したのは、その強さではなく、入っていけるという点であった。壁は人を阻み、石を阻むが、風を阻むことはできない。風は戸の隙間や窓のすきま、葉の下から、少しずつ滲み込んでくる。だから巽の卦が説くのは「入る」ことと「順う」ことである。無理に突き進まず、隙間に沿って入る。形を見せず、しかし至らぬところはない。これは以前に書いた「風」とは別のものである。あの風の篇は気流を、見えぬ力を語った。巽が語るのは風そのものではなく、風のあの「入っていける」生き方である。
八卦のなかで、巽は南東の方角に当たり、家の長女を表す。長女は家の中で、たいてい声の大きい者ではない。しかし何事もすうっと収めてしまう者である。風、木、南東、長女、これらは皆、同じ知恵を語っている。柔らかさは入り、順うことで成るのだ。
戸をぶつからず、隙間が開くのを待つ
風の最も優れた技術は、壁と張り合わぬことである。戸が閉じているなら、ぶつからず、風が隙間から抜けるのを待つ。壁が塞いでいるなら、無理に押さず、回り、滲み、気づかぬ欠け目から入る。生きるうえで多くのことがそうである。強引に突っ込むと弾き返されるが、勢いに乗り、隙間を借りれば、かえって入っていける。巽が最初に教える実用的なことは、戸をぶつかることばかり考えるな、まず隙間がどこにあるか見よ、ということである。
下に一つの陰、柔が剛を制する配列
巽の卦の形を、下の一筋だけが陰で、上の二筋が陽である。この配列は面白い。一つの柔らかさをもって、上の剛を支え上げる。しかし剛に押し潰されるのではなく、柔が下にあって、上へと潜り上がれるのである。これを人に当てはめれば、相手と力比べをせず、しかし下から少しずつ心の中へ入っていく、その力である。壁をぶつかって勝った風など、見たことがあるだろうか。
従うことは、卑怯ではない
巽は「順う」ことを説くが、これは最も「卑怯」と読み違えられやすい。人に従って、自分を失う、というふうにである。しかし巽の順うとは、勢いに従うことである。水がどちらへ流れ、風がどちらへ向かうかを見極め、その勢いを借りるのだ。それは屈服ではなく、賢く入ることである。大勢という流れに頑として逆らって歩く者は、往々にして傷だらけになる。順うこと、回ることを知っていれば、行きたい場所へかえって着く。順うことは人格ではなく、方法である。
そこに入る所、硬いものは入れない
風の入れる所には、石も入らず、拳も入らず、道理が注げぬ耳の中へも、風はかえって潜り込む。これが巽の浸透力である。それは占領せず、蔓延する。関係のなかで、あなたを急いて説得せず、しかしじわじわと溶かしていくような者に、巽の影がある。硬いものは一時を制すが、柔らかい入り方は、音もなく勝つ。
長女の象、奪わずとも、どこにでも在る
八卦のなかで、巽は長女である。昔の家では、長女はたいてい真ん中で持て囃される者ではない。しかし何事も彼女の手に落ちれば、すうっと広げてしまう者である。彼女は目立たず、騒がず、しかし家族が彼女なしでは回らない。巽の「入る」ことが人に落ちると、よくこの種のものになる。姿を見せず、しかしどこにでも彼女がいる。本当の入り方は、必ずしもスポットライトの下に立つ必要はない。
風は跡を残さず、しかし物はすでに変わった
風は過ぎ去る。あなたはそれを見ることはできない。しかし簾は揺れ、梢は傾き、肌に涼しさが残る。それは来た、そして何かを変えたのだ。巽の力は、形なきものでありながら実在である。ある人たちの話し方や振る舞いがそうである。耳を轰かさず、目を刺さず、その時は何も感じなかったが、二日経つと自分の考えがこっそりと動かされているのに気づく。これが「入る」ことの深さである。騒がず、しかし地に落ちる。
人に教えるのは「風に従う」、群れに従うではない
巽は順うこと、入ることを説くが、肝心な境目がある。風に従うとは、勢いを見てそれを借りることである。群れに従うとは、自分の考えを失ってむやみに走ることである。風には方向がある。群れに従う者にはない。もし人が「順う」を「他がどちらへ行くなら私もそちらへ」と生きるなら、それは巽ではなく、浮草である。巽の順うことの内には、独自の基準がある。順うのは道理であって、人波ではない。
それは入りもし、散りもする
巽は風であり、また木でもある。木は根を下ろして育つが、風は散りやすく、漂いやすい。巽の「入る」ことが根を失えば、浅く触れては止め、何にでも少しずつ手を出して何も残さぬなる。だから巽はもう一方の面も思い出させる。入っていけるだけでなく、根も下ろせ。隙間を潜るだけで根を下ろさねば、風が止んだ瞬間、また散ってしまう。
謙遜を、自分を失うこととして生きるな
巽は謙遜とよく結びつくが、謙遜が過ぎれば、骨のないものになる。風がただあらゆる隙間を潜るだけで、押さえるべき時を持たねば、それはただの抜け風となり、何も残さない。巽をよく読む者は、順うべき所では順い、守るべき線も守る。柔らかさは入るための術であって、自分を拭い去ることではない。
急がず、隙間が自ら開くのを待つ
風が戸の隙間から入るのは、突っ込むのではなく、ゆっくりと満ちていくからである。巽の「入る」ことの根底には、忍耐がある。その一瞬を奪わず、空間が自ずと緩むのを待ち、そして少しずつ満たす。生きるうえで多くのことがそうである。焦って詰め込もうとする者は、たいてい戸口で詰まる。待ち、回り、隙間が自ら開くのを許す者は、かえって部屋全体が彼のものになる。ゆっくり入ることこそ、かえって深く入ることである。風は自分の入りの遅さを焦ることはない。ただ入っているだけで、いつか部屋全体が彼のものになる。
だから巽を書くとは、無理に入らぬ進み方を書くこと
私たちは「巽の命を受くる者は順うべくして必ず安らかなり」とも書かず、「巽を犯すとは如何に解くか」とも書かない。私たちの書くのは、こういうことである。強引に突っ込むといつも弾き返されると気づいた時、あなたに別の隙間を替え、勢いを借り、ゆっくり滲み込む柔らの力があるだろうか、と。この古い記号、巽は、下に一筋の柔らかな陰、上に二重の剛なる陽を描き、南東の角に立ち、未だ戸をぶつかっている者たちを見ている。戸をぶつかる必要はない。隙間はいつもそこにある。あなたが硬くある必要もない。
本当に難しいのは「入る」ことなどではなく、巧みに入ることである。巽の教える一つのこと、その実を言えば軽い。無理押しを腕前と思うな。風は決して壁をぶつからぬ。それはただ、入っていくのだ。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。