青、それは未だ熟れぬ緑
DustEcho編集部

青は五色のなかで東の色、木の色、春の色である。しかしそれはただの色ではない。青は藍と緑のあいだにあり、草木が地面から顔を出したばかりの嫩さであり、空がようやく明るみはじめた微かな光であり、青出於藍のなかでまだ上へ上へと昇っている段階である。わたしたちは青春や青年や青涩や名垂青史や炉火純青といった言葉を使う。青という一字のうしろには、初めあり、未熟あり、いま何かになりつつあるその過程そのものが立っている。青は満ちてはいないが、だからこそいちばん心に残る。
青は藍でも緑でもない
青とは何の色かと十人の人に尋ねれば、十通りの答えが返ってくる。あるときは空の藍、青天。あるときは草の緑、青山。またあるときは墨の黒み、青糸である。青の曖昧さこそがその魅力である。青は固定されず、漂う。まだ育ちゆくものを、一つの色で枠にはめようなどそもそもできない。青が定義を拒むのは、自分自身がまだ育ちきっていないからだ。人もまたよく似ている。二十のころ、自分が藍か緑かなど誰に言えよう。
なぜ青は東の色なのか
五行の配色によれば、東は木に属し、木の色は青である。春になって草木が芽吹くとき、その新芽の色が青なのだ。だから青には文化のなかで生まれ出るという意味が自然に宿る。成熟した命ではなく、命が顔を覗かせたばかりの色である。東は始まり、青は始まりの色相。両者が重なって、青はまだ形にならぬのにすでに動いているすべての視覚的記号となった。わたしたちが青を見るとき、無意識のうちに知る。後にはまだ続きがある、と。青は終わらない。予告するのだ。
藍より出でて藍より青し
この古い言葉はもとより布を染める話であった。藍草から抽き出した青は、藍草そのものよりも深い。のちにこれは弟子が師を、後進が先人を超えるさまを表すようになった。ここで青は上へ昇る意象である。終着の色ではなく、進化の途上にある色だ。青であり続ける人とは、なお吸収し、なお変わりゆく人である。恐れるべきは早々に炉火純青となって自らを溶接し、もはや青でいられなくなることである。青の良さは、自分がまだ到らぬと認めるところにある。
青春は始まりを形容する言葉
青春という二字は青と春を結びつける。どちらも初めであり、生であり、生活に押し固められる前のふわりとした柔らかさである。わたしたちが青春を懐かしむのは、年齢ではなく、何事もまだ間に合ったあの状態なのだ。青がすべての人に示すのはこうである。若くなくても青春の感じを抱くことはできる。不確かなことを始めようとする意志がまだあるなら、あなたのうちにはなお青が残っている。青は心の持ちようであり、歳の数ではない。
青涩は欠点ではない
実が青いときは酸く、渋く、一口噛めば顔をしかめる。しかし青涩にも青涩の良さがある。それは本当で、蝋を塗られず、早摘みにされず、植物自身の気性を帯びている。人もまた然りである。話すとまだ顔を赤らめ、用を弁ずるのが少し不慣れという青の状態は、隙のない老練などより、かえって人を近づけやすい。青涩は十分でないことではなく、まだ角が磨り減っていないことである。熟すことを急ぐな。ある青は、残しておくほど良い。
開ききらぬ緑がいちばん心を打つ
春先に抽いた柳の芽を注意して見たことがあるだろうか。満開の木の緑ではなく、枝先のそのおずおずとした、半ば透き通る嫩さである。その開ききらぬさまがいちばん胸を刺すのは、それが希望の姿だからだ。いつか満ちることを知りながら、今は慎ましく満ちようとしている。青とはこの瞬間を色として止めたものである。わたしたちが青を愛するのは、その満ちかけでまだ満ちぬところである。満ちてしまえばもはや苛立たせはしない。青の苛立たせる力は、まさにそれがなお宙吊りになっていることにある。
青衫は読書人の色
昔、読書人は青衫を着た。富の正紅でも、権貴の紫でもなく、素朴な青である。ここで青は未だ仕えず、学び中で、まだ道の途上にあるしるしであった。青衫を着る人は、なお求めており、まだ定まっていないと見なされた。この身分は少しも恥ではない。誠実そのものである。自分を学徒と認めることは最大の率直さだ。青衫の青は、すべての人に正当な居場所を留めてくれる。あなたはいつまでも学び手でよく、卒業を急ぐ必要はない。
わたしたちも皆、青のときがあった
初めての仕事、初めて誰かを好きになったとき、初めて家を離れたときを思い返してみよ。そのころのあなたは不器用で、力を入れすぎ、よく間違えた。それがあなたの青の時期である。今振り返えば笑ってしまうかもしれないが、あの青だった自分を本当に嫌ったりはしない。その青こそが、今日の少し熟したあなたを今日へと運び上げたのだから。青は過去形ではない。それはあなたが作るあらゆる新しい始まりの下塗りである。次に見知らぬ事柄に向き合うとき、それと見抜け。ああ、また青だ、と。正常なことだ。
少しの青を残すとは、少しの可能性を残すこと
人は青を恐れる。青は不確かさを、なお間違えることを意味するからだ。しかし自分をすっかり熟させ、閉ざして、青でいなくなる那一刻、別の何かになる道もまた閉ざしてしまう。青は可塑性の色である。少しの青を残すとは、若ぶることではなく、未来に口を開けておくことだ。なお学びたい、なお始める勇気がある、なお「わたしが間違っているかもしれぬ」という余地を許す。すっかり熟した人は安定しているが、また閉ざされている。少し青でいてこそ、世界はなおあなたに開かれる。
青は誤って読まれることもある
青を不十分と見なし、熟すよう、形を定めるよう、早く役に立つ人間になるよう急かす者もいる。しかし青を早摘みにされるのは何より惜しいことだ。早く染め抜かれた緑は、その満ちかけの活気を失い、心に残る理由も失う。青は満ちることを急いで証明する必要はない。今のままで、すでに育っているのだ。青でいてよいと許すとは、なおなりゆく途中にあり、ただ在るだけではないと許すことである。早摘みのものは甘いが空っぽだ。その少しの青を残してこそ、本当の味わいが残る。
青を未完の生気と見なせ
もし東が始まり、南が盛り開き、西が収まり、北が養いなら、青はまさにそのなりゆくことそのものである。永遠に青であれとは勧めない。それは育たぬことと呼ばれる。しかし身の上の青をすべて剥ぎ取ることは急ぐな。あの熟れきらぬ部分、口に出さぬ言葉、始める勇気のなかった念い、それらはあなたがなお生きている証である。青は結果を約束しない。約束するのはただ、あなたはまだ終わっていない、ということだけだ。そして未だ終わらぬは、すでにとても良いよりも、なお心安らぐ三字である。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。